E188J73 2004年 国語 上智大学 2/10,1次試験,本学 法(法律) 【三】   次の文章を読んで、後の問に答えよ。  この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、暫くすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないがむやみに眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、Aどさりと音がしてア眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。  ふと気が付いて見ると書生はいない。沢山おった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違ってむやみに明るい。眼を明いていられぬ位だ。果てな何でも容子が可笑いと、Bのそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。  漸くの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。暫くして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。その内池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてCそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くと漸くの事で何となく1人間臭い所へ出た。此所へ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩は遂に路傍に餓死したかも知れんのである。2一樹の蔭とはよくいったものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。その内に暗くなる、腹は減る、3寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻も猶予が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。今から考えるとその時は既に家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩はかの書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一にoったのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。4吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四、五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔を暫らく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人は余り口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩は遂にこの家を自分の住家と極める事にしたのである。  吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎり殆んど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。イ当人も勉強家であるかの如く見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寐をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二、三ぺージ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人にいわせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。  吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものには甚だ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。如何に珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る。彼が昼寐をするときは必ずその脊中に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむをえんのである。その後色々経験の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寐る事とした。しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの小供の寐床へもぐり込んで一所にねる事である。この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寐る。吾輩はいつでも彼らの中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。小供は――殊に小さい方が質がわるい――猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現に先達てなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。 (夏目漱石『吾輩は猫である』) 問一 波線A「どさりと」、波線B「のそのそ」、波線C「そろりそろりと」の表現をそれぞれ何と呼ぶか。次のa〜dのうちから選べ。 a 擬声語 b 音声語 c 慣用語 d 擬態語 問二 傍線部ア「眼から火が出た」、イ「当人も勉強家であるかの如く見せている」の表現についてどういう修辞が使われているか。次のa〜gのうちから一つずつ選べ。 a 朧化法 b 反語法 c 擬人法 d 提喩 e 直喩 f 隠喩 9 諷喩 問三 傍線部1「人間臭い所」とはどこか。次のa〜dのうち適切なものを一つ選べ。 a 竹垣 b 邸内 c 池のまわり d 隣家 問四 傍線部2「一樹の蔭」とはどの表現と呼応しているか。次のa〜dのうち一つを選べ。 a 竹垣の崩れた穴 b 縁は不思議なもの c 路傍に餓死 d これから先どうして善いか分らない 問五 傍線部3「寒さは寒し」の文の効果は、対照的にどこにあらわれているか。次のa〜dの文のうち適切なものを一つ選べ。 a 書生との出会いを呼びさます b 台所へとすすむ c 明るくて暖かそうな方へ歩いていく d おさんとの出会いを呼びさます 問六 傍線部4「吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され」という文は結果であるが、その原因は何であったのか。次のa〜dのうち一つ選べ。 a ニャーニャーと鳴いても書生がこないので b 笹原の中に棄てられたので c 雨が降ってくるので d 寒さと空腹で耐えられないので 問七 吾輩の性格と行動について、次のa〜gのうち、適切と思われるものを三つ選べ。 a 吾輩の兄弟は沢山いたが、どこに行ったのか姿を見せない b 食物のためには、死を恐れず行動するタイプである c 吾輩の両親とは離ればなれになっていて、ここでは姿を見せない d 吾輩は人づき合いの悪い猫であるように描かれている e 歩きはじめると苦しい状態になるほど病気がちである f 吾輩は人間の世界にすてられた存在として世にあらわれた g ニャーニャーと鳴くと誰かが迎えにくるという甘い考えを吾輩は抱いていた 問八 吾輩からみた飼い主である主人の性格について、次のa〜hのうち、適切と思われるものを四つ選べ。 a 主人は教師をしているので、部屋から出ずに勉強三昧の生活をしている b 主人は大食漢で、昼寝をする習慣がある c 主人は胃弱でいつも薬を飲む習性がある d 教師という職業は楽なもので、自分にもできると確信している e 主人に愛されていると思っているので、新聞を読む時に膝に乗っている f 主人は家に置いてくれた慈愛にみちた人柄である g 主人は自分の職業について教師ほど辛いものはないと言う h 主人は緊急時には、人前にあらわれて、決断をくだすが、無口のように見えた