F451H64 2005年 日本史 明治大学 2/16,3教科方式,本学 商 【4】   次の文章は,服飾の歴史について記したものであるが,文中の(ア)〜(オ)について,〔   〕に入る最も適切な語句を@〜Dから選び,マークしなさい。また,A〜Eの空欄に入る最も適切な語句を,解答欄に漢字で記入しなさい。  服飾は,色彩,形,装身具などのとり合わせにより,一定の権威や職業を表象する手段としてきわめて便利なものであった。そのため,古来,支配者側の政策・統治手段として頻繁に使用されてきた。また,逆に,それは機能的な進化を追求していく中で,ファッション情報の発信源として,庶民の力強さを表現する一手段ともなった。  現在知られているわが国の服飾についての最古の記述は,三国時代の正史,『三国志』の内,魏書の『烏丸鮮卑東夷伝』の一部,一般にいわゆる A と呼ばれる文献にある。その記事によれば,男子は大人も子供も身体に入墨を施し,頭は髪を束ね,冠物をせず木綿を巻き,着衣は一枚の布を身にまとって結びとめるだけのものであった。女性は,前髪を上げず,髻を折り曲げて結び,貫頭衣と呼ばれる一枚の布に穴を開けて頭を通したものであったという。 A には,紵麻を栽培し,麻布を生産していたことと同時に,養蚕をなし,絹糸を紡いでいたとあるが,弥生時代には原初的な絹織物が生産されていたと一般に考えられている。ただ,庶民の衣料品における主な材料は,楮,麻の皮をなめして生産される木綿を織った布であり,朝鮮半島から綿布生産が伝えられ,軌道にのる中世後期〜近世初期までは,わが国の服飾の基本素材となっていた。  律令により,官僚機構が国家の根幹となる推古天皇の時代,わが国では最初に明文化された服制,冠位十二階が制定された。『日本書紀』によれば,それは,徳,仁,礼,(ア)〔@文 A武 B信 C法 D忠〕,義,智をそれぞれ大小に分け,十二階とし,「当色」の冠を授けるというものである。「当色」とは一般に,紫,青,赤,黄,白,黒の六色と考えられている。貨幣経済が浸透していないこの時代,布地は,米や塩などとともに有効な交換手段であったことは,律令時代の租税体系,いわゆる租庸調の体系に組み込まれていたことから判断できる。庸は,正丁に10日間,次丁に5日間,政府の命じる B と呼ばれる都での労役への従事を指したが,実際は,これも調と同様にほとんど布,綿,米,塩などで代納されていたといわれている。  貴族社会では,冠,笏などをつけた束帯,唐衣や裳をつけた十二単などの正装が著名であり,素材は主に絹が用いられていたといわれる。これらは,10世紀以降の国風文化の影響から,唐風の服装を大幅に日本人向けにつくりかえたものとなっており,儀式においてきわめて重要な役割を果たしていた。10歳から15歳前後にかけて,女子はそのとき初めて裳を付ける「裳着」,男子は加冠の儀として烏帽子をかぶせる C と呼ばれる成年式が行われていたといわれている。  中世,武士が支配を強める中,衣類は機能性を追及して展開する。後の図にあるのは,(イ)〔@衣冠 A水干 B直垂 C直衣 D狩衣〕と呼ばれる下級武士の通常服であるが,上着部分と下袴部分の分離により,運動性が高まり,鎌倉時代以降は,武家全体の通常服として一般化した。  中世後期から近世初期にかけて,綿布生産が軌道に乗ると,藍,紅花などの商業作物を使用して色とりどりに染め上げた木綿服が庶民の通常服となり,麻の需要は減少した。しかし,中には,技術改良によって,かつての下級品のイメージを覆してブランドを確立し,江戸時代の庶民文化に華を添えた麻織物もあった。越後の(ウ)〔@小千谷縮 A丹後縮緬 B久留米絣 C上田紬 D有松絞〕はその代表的なものの一つである。また,合羽など,外国の文化を取り入れた新しい衣料品が生まれると同時に,かつては,貴族の下着であった小袖が流行し,それに合わせて羽織,袴,あるいは裃などの着こなしが発達した。それまで富裕な階層を主な対象にしていた服飾販売店も,やがて定価を付けて販売する呉服店へ姿を変え,庶民でもおしゃれを楽しめるようになっていったのもこの時代の特徴である。凡庸な着こなしを打ち破る「かぶき者」も現れ,やがて,歌舞伎役者などが庶民の流行を先導していく自由闊達な庶民の時代を迎えたのである。  絹織物では,京都の絵師,宮崎友禅が友禅染めを考案するなど,大きな技術革新が果たされた。一枚一枚丁寧に染め上げられた京友禅,加賀友禅など,それはまさに,一幅の絵画を身にまとう様となったのである。実際,江戸中期の代表的絵師であり,「紅白梅図屏風」で著名な D (1658〜1716)なども優美な小袖の製作に力を注いでいたという。ほとんど現在の「きもの」の姿に完成された江戸時代の服飾は一般に,身体の成長を袷や裾上げで調整できたため,一代のみならず,古着として流通し,さらに寿命が尽きた後も,さまざまな生活資材に再利用可能で,環境への負荷のきわめて小さいシステムであったといわれている。  近代に入ると,洋装が普及するが,その最初の用法は,西洋兵法の移植に伴う軍服であり,やがて,それが警察官,鉄道員や学生・生徒などの制服として普及していった。富国強兵というスローガンのもと,軍服など軍事備品も国産化の必要が叫ばれ,政府は,官営模範工場として(エ)〔@新町 A愛知 B富岡 C千住 D広島〕に製絨所を設置し,ラシャやフランネルの国産化を計り,軍服,軍用毛布の供給に当てた。  だが,洋装の庶民への普及は意外に遅れた。条約改正を目的とした欧化政策により,外国人要人などを接待する社交場として1883年,東京日比谷に建てられた E での夜会,音楽会などで盛んだった洋装も,その流行はごく一部の人々の,それも一時的なものにとどまったといわれている。現在,特別な行事や儀礼の際を除き,日常服のほとんどが洋装化されたとはいえ,(オ)〔@『和解』 A『その妹』 B『刺青』 C『腕くらべ』 D『父帰る』〕の著者として有名な永井荷風が,「日本人は洋服着ながら扇子を携へ持ち,人と対談中も絶え間なくパチクリ音をさせる。但し之を見て別に怪しむ者もなきが如し,是日本当代特異の風習なり」(『荷風全集』第16巻,岩波書店)と揶揄したように,その着こなし方は,洋装の生まれ故郷では考えられないような,わが国独自の歴史や伝統が色濃く反映したものとなっていると考えることができよう。